2009年6月18日木曜日

パーティーの思い出(※昔のブログから転載)

パーティーの思い出(※昔のブログから転載)

この1ヶ月くらいパーティーのことばかり考えていた僕は、もう本当にどうしようもないなと思ったりしているのだが、何でこんなにパーティーが好きなんだろうって考えていて、ふと思い出したのが10年近く前のことだった。記憶というのは本当に面白いもので、思い出すと芋蔓式に出てくるからすごい。たぶん、コンブレーがありありと浮かび上がってくるあの瞬間もきっとこういうことだったんだろう。

1999年夏、僕は1人でパリに1ヵ月ほど滞在していた。といっても語学研修とか留学とかではなくて、移民街(といっても20区内)の安ホテルにずーっと滞在して、ひたすら、1人で語学勉強&ぶらぶら毎日歩くという、まあ、変な旅行だった。

当時はまだフランで、その宿は確か日本円で1泊3000円くらいではなかったかと思う。昼でも電気をつけなければならないほど薄暗く(窓を開けると壁!)&シャワーも共同という環境は、決していいものではなかった。普通の学生なら6泊7日くらいで満足できそうなところを滞在をやたらに長くしたものだから、なけなしの貯めたバイト代を切り詰めて切り詰めて生活していた。
移民街だけあって、日本の雑誌に出てくるパリとは全く違う、様々な肌の色が行き交い、角を曲がると違う文化圏だったりする街並みは、有色人種の僕には意外に居心地がよかった。

僕のここでの日常は、朝はカフェで勉強をして、昼から夜にかけて地下鉄にも乗らずパリを一周するくらい歩いて(飯はテイクアウトの中華かケバブ、それかサンドウィッチ)、夜は場末の飲み屋やクラブに行くという、なんとものんびりとした生活だった(この生活のせいで、いまだに東京23区よりもパリ20区のほうが地図をイメージできる。とはいっても東京に比べたらパリはせまいけどね)。
そんな生活の中で、とても印象に残っているというか、1番の思い出は、ブラジリアンバール、ファベラ・シックに行った時のことだ。
バスチーユの北、レピュブリック広場から、さらに東に行くと、オーベルカンフという通りがある。そこに、当時、ブラジリアン・バール、ファベラ・シックがあった。
ファベラ・シックはもしかしたら知っている人もいるかもしれないが、この2年後くらいにレピュブリック広場に移転することになり、ラ・ファブリックと共に「フーディング」というブームを牽引することになる。
その頃のファベラ・シックはそんなことを微塵も感じさせない、場末の席が20席もないブラジリアン・バールだった。人生初のカイピリーニャもここで飲んだ。
当時のオーベルカンフは、再開発の影響からか若いアーティストやミュージシャンが移り住みつつも、地元のどちらかと言えば移民と呼べそうな肌の色が濃い人達も共存する、独特の雰囲気を持った通りで、ファベラ・シックはその通り沿いにある店の中でもとくに繁盛している店だった。

僕のパーティーの原点は、ここで繰り広げれていた光景。
地元の老人、おじさん、おばさん、移り住んだばかりの金のなさそうな移民のアーティスト、オーベルカンフの夜が大好きというオシャレなハヤリもの好きのパリジャンなどなど、老若男女、人種は様々、かかっている音楽はブラジル!そんなところに彼らから見たら中学生みたいなアジア人の僕が1人、そんな夜。
せまいバールで踊り始める人や、友人達と真剣に語り合う人達もいたり、初めて会ったもの同士で乾杯を重ね、世間話をつまみにしている人達もいる。もちろん、キマッている人もいる。そんな満席どころか、立ち飲みしている客ばかりのバールで、1人カイピリーニャに酔っ払いながら、その光景が、なんか舞台を見ているみたいで、とても尊いものに思えたのは、まだ若かったからだろうか?それとも、日本に昔行ったことがあるとカイピリーニャを奢ってくれた老人がやさしかったからか?

パーティーについてずっと考えていたら、この夜のことを思い出して、常日頃から、日常の延長線上にもなにかしらドラマとかってあるんじゃないかと思っていた自分の原点に気付いてしまった。この夜のファベラ・シックは、パーティーとは決して言えないけれど、この週末のカジュアルな非日常を、僕はずっと求めていたのかもしれないと。

スタイルだったり、規模だったり、もちろん場所だったり、全く違うんだけど、たぶん、僕がやりたいことって、この夜の自由さなんだと思う。そして、昔のように舞台を裏から覗きこんで、ワクワクできれば、関わっていられればいいのかもしれない。たまに出演させてもらったりして。

そんな大事な思い出をすっかり忘れてしまっていた自分に愕然としつつ、あの日に感じたことを、まだ感じようとしている自分に気付いて、ずっと10代の自分に後ろめたい気持ちでいたのが、少し軽くなった。

そして、あそことここはまだつながっていて、夜はまだ続いているんだと思った。


ちなみに、このパリ旅行の時に、サンジェルマン・デ・プレに行って、観光地と化しているのにショックを受けたのも思い出した。ボリス・ヴィアンの「サンジェルマン・デ・プレ入門」を読んでいた僕には、その変わり様に耐えられなかった(50年も昔だから当たり前だ!)。

もう、“タブー(穴倉酒場と呼ばれていたジャズクラブ)”はない、パーティーは終わってしまったんだ、と19歳で思ったんだよね。アホだわ。

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