2010年1月22日金曜日

誕生日のこと。それにまつわる家族のこと。

過ぎてしまいましたが、1月20日にとうとう30歳となりました。

お祝いのメールなど、たくさんの方々からのありがたいお言葉をいただきました。いつも感謝しております。

僕、あまり誕生日とか気にしないタイプなんで(自分の誕生日すら忘れていたことがありましたね、20歳の誕生日は確かそうでした…)

ここで自分の誕生日のことなど書く予定すらなかったのですが、各方面から祝福してもらったのが嬉しかったのと

そういういただいたメールの1つ1つを読んで

誕生日っていうのは、自分を祝うためのものではなくて、周囲に感謝の気持ちを伝えることだという、当たり前のことに気づきまして

ここであらためて、感謝の気持ちを伝えようと思った次第であります。

僕に関わってくれている皆様のおかげで、30年間生きていくことができました。本当にありがとうございます。

健康に、楽しく、迷惑をかけないように、これからも生きていきたいと思いますので、皆様に支えていただければ幸いです。


ちなみに、30歳になった感慨とかはほとんどなく、むしろ毎年誕生日を迎える度に、「若くなったな(気持ちが)~」と思います。20代前半こんなにオープンでアクティブじゃなかったしね。


で、誕生日にちなんで、僕の生い立ちと父親のことを中心に、原口家のことについて書こうと思います。(長いです。)


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僕は、母親を小学1年生の時にガンで亡くしまして…

横浜で父、兄、僕と3人で暮らす生活がスタートしたわけですが、父の仕事も忙しく、僕らが不自由してはいけないと思って、宮崎から父方、母方双方の祖父母が入れ替わり来て、僕らの面倒を見てくれていました。

それでも高齢の祖父母を横浜に呼んで生活するよりも、僕らを田舎で育ててもらうほうがいいだろうと判断して、小学3年生の時に宮崎・都城の父親の実家に引き取られました。

そして、隣に住む叔父・叔母の家で食事を食べさせてもらいながら、寝泊りは祖父母の家で、という生活を約2年ほどさせていただきました。

この時、僕は幼過ぎて、父親が「家族一緒に住みたい!」と親戚含めた家族会議で泣きながら主張したことや、兄は右も左もわからず、母親死んだことすらまともに受け入れているかどうかわからない、弟を抱えてのサバイバルに相当なプレッシャーを感じていたことなどまったく知らずに、子供にとって遊びの楽園(自然の宝庫!)のような宮崎で生活できることに、喜んでおりました。
もちろん、都会から来たということで、たっぷり同級生にいじめられましたし、しこたま家事手伝いをしましたが、全く悪い思い出がありません。

叔父・叔母・従兄弟達には本当によくしてもらいました。
タフな経験というよりも本当に楽しい時間でした。幸せだったと思います。

ただ、兄は常に
悲しい思いをさせないように必死に僕を守ってくれていたんだとも思います。当時の僕は全くそのように感じていませんでしたが…。まあ、無邪気なものですよね。

父親は父親で、当時ダムの設計技師をしていたんですが、横浜での単身での生活に絶えられなくなり、会社に辞表を提出しました。僕らが宮崎に引き取られてから1年半後のことでした。

ただ、会社からは受理されず、じゃあ、地元に出張所を作って、そこで図面書いて仕事したら、という話になって、会社に在籍しながら田舎に帰るという、今では考えられない好条件で仕事を続けることになりました。

もちろん、事務所の経費は会社持ち、そして事務所は自宅と兼用ということで、子供達と生活しながら仕事をするという夢のようなサラリーマン生活を送っておりました。

父親が勤めていた会社は、日本有数の大企業でしたが、高卒で役職のない父親にそんな待遇をするのは、今では絶対有り得ないことでしょう。彼もすごく優秀だったんだと思いますが、景気も良かったし、日本的家族型企業風土がまだ残っていたんでしょう、その時代には。

当時の僕にとっての父親は、仕事をする人というよりも常に遊んでいる人に見えていまして、パジャマで朝食を作り(米を炊くのと朝の洗濯は兄の仕事)、子供を見送った後、近所の銭湯に行き朝風呂、帰ってきたら、そのまま隣室の職場で仕事。
午後3時過ぎに図面をFAXで送り、パチンコへ。水曜は徹夜で飲み、土日はゴルフ!

という悠々自適な生活だったように記憶しています。(父、兄からは違うよ!と言われそうですが…。)父親自身も後年「あの時が俺の青春だった。」と言ってまして、この時の生き方が強烈過ぎて、僕は影響されまくっているんではないかとさえ思っています。

学校帰りに、周囲が田んぼに囲まれた「現代」というパチンコ屋に行くと、父親が必ずと言っていいほどいました。そして、小学生の僕を隣に座らせて、自分のリーチどころを教えてくれました。後年父親に、なぜ僕をパチンコ屋に入れてくれたのかと酒の席で聞くと、「玉が出るとオマエが喜ぶんだよ。」と言っていました。

今、そんなことをやっていたら、不健全とか言われるのかもしれないけれど、父親が大当たりしてくれるだろうと思って、ジュースを飲みながら、景品のおもちゃやお菓子を見つめていたことは、僕にとってはいい思い出です。

兄の中学の運動会は祭りみたいで、テキ屋もたくさん出て、大人達が入り乱れて焼酎のビンがそこらへんに転がっていました。たかだか20年近く前のことですが、僕の田舎にはおおらかな人達があふれていました。
それは僕にしてみれば牧歌的な風景です。

とはいってもいいことばかりではなく、父親には理不尽なことで殴られまくっておりました。
兄が、部活と受験勉強に疲れて家で一眠りしているときに、洗濯物を畳んでいないという理由で、殴られているのには、さすがにビビりましたね。
あとは酔っ払って、腹いせに皿を割ったり、殴られたりもしました。
酔っ払って帰ってきて、皿が洗ってない、米を炊いていない、勉強していない、テレビを見ているといって、怒られることはしょっちゅうでした。

まあ、それも全ていい思い出です。


このような絵に描いたような男生活は僕が中学2年生の時まで続きました。楽しかったですよ、ホントに。
そして、兄の大学進学がきっけになって、家族揃って横浜に戻ってきてわけです。父親はまた以前と同じようなサラリーマン生活に戻りました。
僕は横浜の中学に編入されて、自分が標準語をしゃべっているつもりなのに、宇宙人が来たかのように僕の言語を理解しないクラスメイトを見て唖然としました…。


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兄と父親のことについて話す機会は多いのですが、兄は父親のことを尊敬できる人、頼れる人、怖い人、またビジネスマンとしての憧れの対象、としているようです。

で、翻って僕なんですが、僕は彼を人生を楽しんでいる人っていう見方をどうしてもしてしまうんですよね。父親のことを考えると、酔っ払って楽しそうにしている姿や競馬に当たってはしゃいでいる子供のような姿ばかりが目に浮かびます。兄からは「よくそんな呑気な感じで接していられるな~」と言われますが…。


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母親が死んでしばらくは家族で、その死の話を真剣にすることはあまりなかったのですが(むしろ、僕ら兄弟は男だけでも生きていける!家事全般できるし!みたいなのをアイデンティティにしていたので)

母親がいたほうが良かったかもしれない、という話を大学生の僕が父と兄に告げた時、兄は悔しがって泣き、父親はホッとしたような顔をしました。

父親は「僕らが母親なんかいなくていい!」なんて言う時にいつも寂しい顔をしていました。

父親も我慢していたし、兄も我慢していた。兄は言い出したくても、弟が不憫で言えなかったから、母親の存在を自分の中に隠し、必死で耐えていたんです。当たり前のことですが、兄の方が母親と接している時間が長かった。

父親のように人生の理不尽に耐えて強く生きているということに兄は共感していたんだと思います。

僕は守られながら、楽しい側面しか見ていなかった。

この時、そう強く思いました。(そして、兄は尊敬できる家庭人として、家族を守るために中国という異国の地で必死で仕事をしています。今では母親および先祖の墓参りに家族内で積極的に出掛けているのは兄です。)


でもいいんです。僕は、亡くなった人達に守られ、家族に守られ、周囲のみんなに守られ、世間に守られ、楽しく生きていくことができている。

そういうことが、年を重ねるごとにわかってきました。そして、30歳になって、誕生日の意味をようやく知ったように思います。


僕はどんなに辛いことがあっても楽しもうとした父親の姿を見て育ちました。自分でもそれを体現したい。

僕にとっては最高の遊び人で、楽しそうにしている父親が好きです。今も好奇心旺盛に新しいビジネスに取り組もうとしている彼は、何よりもまず楽しむことに重きを置いているように思います。


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父親との最高の思い出は、21歳の時に2人で行ったラスベガス・ロサンゼルス旅行です。

コンサルタントとして独立するため、長年勤めた会社を早期退職した彼は、「俺の長年の夢はラスベガスに行って、勝負することだ!」と最高にアホなことを言って、僕に旅行の手配をさせました。

そのラスベガスで過ごした日々で彼は夕方から午前3時まで毎晩勝負していました。相当負けたらしいですけど、すっきりした表情で「楽しかった」と言っておりました。

僕も彼の夢に付き合えてよかったと思っています。もしかしたら、彼の夢には“息子と一緒に”というのも条件に入っていたのかもしれない。


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父親もこのブログを読んでいるらしく(ブログって生存確認には便利ですよね~)

今は父親からも応援してもらって、こうやってDJやパーティーができることが本当に嬉しいです。

普通の家庭なら、眉をひそめる親御さんもいらっしゃるかと思います。

「楽しそうでいいじゃないか!」なんて言われるのは、この年になって稀なケースじゃないかと思っています。昨年は世間的な誤解も大きかったし。


父親にはあらためて、産んでくれた母親がこの世にはいない分(今は新しい母親が僕にはいますよ~)、こうやって30年目の誕生日を迎えられたことに感謝したいです。


ありがとう!



そして、あらためて、みなさんにも!


ありがとうございます!



これからも宜しく御願い致します!!!

6 件のコメント:

武藤 さんのコメント...

遅ればせながらお誕生日おめでとうございます。いつも誘っていただいているのになかなかパーティに行けずにすみません。今度飲みましょう。都合のいいとこいに連絡ください!

それにしても日記読ませていただきました。原口さんの生い立ちがわかって心にじーんとくるものがあります。父上やお兄さんのことを大切にしている原口さんのお気持ちがとても伝わってきました。いいお話をありがとうございました。

わたなべ さんのコメント...

遅れましたが
HAPPY BIRTHDAY

今まで最高の1年にしましょう!

そして、俺らの為に
最高の音楽をきかせてくれい!

以上。

渡辺

PIRO さんのコメント...

自分をさらけだすのって勇気もいるし

とても難しいこと。

でも自己開示しなければ相互理解は

生まれない。

いい話でした。

haraguchic さんのコメント...

武藤さん

コメントありがとうございます!

そうですね~。まあ、男ばかりなんで、そういうところで結束が固いのかもしれません。

読んでもらえてよかったです。

是非飲みにも行きましょうね!

haraguchic さんのコメント...

Wへ

コメントありがとう!

なんか実家で飯食ったばかりだったから、タイムリーな話だったね。

お互い今年もいい年にしようぜ!

応援しているよ!

haraguchic さんのコメント...

PIROさん

コメントありがとうございます!

僕、自分の生い立ちはよく話すんですよね。

話すことで僕という人間をより知ってもらえる思うので。

今年もオープンマインドな姿勢を貫いていきたいです!

今後とも宜しく御願い致します!