2012年11月13日火曜日

プロムパーティーとアナログ、あるいはDJについて。

随分前ですが…

http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/6279

TIME OUTのこの記事を読んで、風営法の話自体よりも

「風営法がなかったとしても、クラブの時代が終わりに差し掛かっているのではないかと心配している」

その箇所に現在の歪みの本質的な何かを感じ、うんうんと頷いてしまいました。

風営法の問題自体も非常に根深い問題なんですけど、今クラブをとりまく問題というのは、もっと切実な何か、というような気がします。

最近よく感じているのは、クラブではなくても、なんとなく音楽がかかっていて、音に浸ったり、踊るような感じではなく、盛り上がっているような場所は、昼夜問わずある、ということです。決して遊ぶこと自体が盛り上がっていない、というわけではないということ。

さらに付け加えると、そこでかかる音の内容よりも盛況なことだったり、雰囲気が洒落れていたりすること、そちらのほうに魅力的に感じている人が全体的に増えているように感じています。もちろん雰囲気がよければよいほどいいわけですが…。

どうでもいいですが、僕はこれを“プロム化”と勝手に名付けています。

プロムの意味はこちらをどうぞ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%A0


プロムパーティーなんてもちろん行ったことないんですが…。プロムパーティーみたいな、ウキウキとした雰囲気を楽しむ感じとでもいいましょうか。ティーン向けの海外ドラマに代表されるような、あのパーティー感を楽しみに行く人が増えているということですね。それはそれで…外に出掛けることが増えていいと思います。ドレスアップして、パーティーを楽しむ、そういう感覚にようやく日本人が馴染んできたのかもしれません。僕も好きです。そういうパーティー。海外ドラマもよく観ますし。



でもね…


プロムだから、“卒業”していくんです…。



さてさて。

先日のDOMMUNEで今アナログというフォーマットを問う、というような企画があって、僕は間近で観ていたんですが、僕らのようにレコードというフォーマットに魅せられていることの逆回転な同時代感に、僕自身はただただ共感でした。僕もずっと購入している馴染み深いフォーマットですし、CDはほとんど買いません。

反面、また深いところにまた1つ潜ってしまったかもしれない、ということも感じたりしていました。そもそもワカルつもりのない人達にはきっとそのこと自体が響くことはないんだろうな、と。悲し過ぎますが…。

もちろん若いDJの中には、リアルタイムなアナログユーザー(ソノシートとかを子供の頃に手回し再生とか)ではないのに、そのフォーマットをそれぞれの理由があって、選択している人達もちゃんといます。そういうのは希望でもありつつ、でも、やはり少数派だと思います。

まあ、ここでしたいのは、フォーマットの選択の話ではなく、なぜそれを選択しているか、というそんな話なんです。

昔はカッコイイということは、どこかワカラナイことであり、それをワカルための過程こそがカッコイイことに近づくための道だったと確信していますが、今はもっと手に取りやすい、誰でもワカルことがヨシとされるようになっている気がします。情報の伝播の仕方が一昔前とはぜんぜん違うから、情報を受け取るまでの心の準備ができていない、盲目的にこの記号を信じろ、と言われているような気がしているわけです。ワンクッションを置いて、考えて、その情報を受け取る、そんな準備がなかなかできない、そういう状況なのかもしれない。だから、よくワカラナイことを選択している自分自身にときおり疑問を持つこともしばしばです…。というよりもワカラナイことへの探求に価値を感じてしまうんです…!


大人への通過儀礼として、過ぎていくものである“プロムパーティー”と、僕が買い続けているレコード、そして続けているDJ。



今後もたぶん、僕のような人はわざわざあまりワカラナイことを選択していくに違いありません。だからこそ、これからどうしていくのか、そういうことを問われている、そんな気がしています。



今僕が感じているのは、風営法への危機感はもちろんですが、昔ほどリスクを背負ってまでクラブで何かをやろうという人が減り、リスクを背負うほどの魅力を感じなくなっている人が増えているのかもしれない、ということです。それはきっと、今が楽しければいいから。もしかしたら、自分達のテリトリーの中での居心地の良さを享受してしまった結果、そこにあるリスクを引き受けられなくなったのかもしれない。


なので、僕らがその面白さとか魅力をシンプルに伝えることは、まず自分自身が外に出ることでしか答えにならないのかもしれないとも思っています。

色々なことが保証されていたら世界は面白くないし、そもそもどんなところにも保証なんてないはずで。実はあるのはリスクばかり。そのリスクを承知で、魅せられて、飛び込んで遊んでみたいものが、クラブだったし、DJだったというのが僕です。その気持ちは10代半ばに初めてクラブの扉を開けてから全く色褪せていません。

たぶん、今問われていることは、僕らが先を見据えて楽しんでいるかであり、それが外に対して魅力的にうつっているかどうか、それをちゃんと伝えられているか、そういうことかもしれません。

よくワカラナイ自分をワカッテもらう努力をしているかどうか。

自分自身を省みながら、行動していかないと、全ては対処療法のようになってしまうのでないか、というのが僕なりの危機感です。あまりにも遊び方が細分化して、自分達がマイノリティーだと気付いたときに、自分達と他の人達の違いを強調したところで、溝が深まるばかりかもしれない。

もしかしたら、療法の果てには自分が好きだったものの形骸しか残されてないかもしれない。過剰に喧伝されたサービスに対し、その対価としてお金を払う、という消費者マインドが蔓延し過ぎていて、よくワカラナイものを楽しもう、という雰囲気ではないことも、そもそも多くの人にとって、よくワカラナイものであるクラブの斜陽に拍車をかけているように思います。そうやって迎合する形でよくワカルものになった時、それがはたして本当に自分が好きなものかどうか、面白いものかどうかはまったくわかりません。プロムパーティーみたいな華やかなパーティーは好きだけど、自分が好きな音が鳴ることもなくなって、そんなパーティーばかりになったら、やっぱり僕はイヤです。

今必要なのは、1人1人にとってのクラブや音楽への気持ちだったり、想い出だったり、もっとパーソナルなものを、斜に構えずに、ちゃんと言葉にすることではないか、というのが僕の直感です。ナショナルストーリープロジェクトじゃないですが。そういうことをもっと共有していくことで、共感して、また行きたくなる、足を運びたくなる人が増えるかもしれない。現状を嘆いてばかりでもしょうがないし、今起きている流れにきちんと抗うことも、時に必要なんじゃないか、と感じます。もちろん、それぞれが、自分のできる範囲で。


確信をもって、自分達の場所で“ダンス”したいし、その光景をたくさんの人達と共有したいです。プロム(卒業)パーティーにすることなく、ね。








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