2012年11月28日水曜日

意識の劣化について。

日々うんざりするようなニュースしか流れてきませんね…。これって本当に他人事ではないです。国がどうこうって以前に、自分自身の意識が劣化し始めていんじゃないかという気までしてきます…。

政治にしろ文化にしろ細分化し過ぎていて、その枠の中しか知らなかったり、居心地の良さに満足し過ぎちゃって、そこで完結してしまう人が多いことに何かしらの問題点を感じ続けています。左右上下全方位関係なく。

世界から提示された情報量の多さに圧倒されていて、自身の中での編集が追いつかない状況なのかも。実はテクノロジーは何も助けてくれていなくて、僕らが思考停止し始めただけなのかもしれない。

ネットの進化によって、編集能力が高くなった人はきっとタフな人です。多くの人達は膨大な情報を前に、結局誰もが見る様なページしか見ない。そしていつのまにか思ってもみない場所にたどりついている。

あっちもこっちも言っていることはわかる、自分の意見はこうだ、と中道の立ち位置から意見を言える人が減ったのかもしれない。他人を無作為に傷つける配慮の無さが溢れていることもそのことと無関係じゃないと思います。

結局は越境者と言えるような人が極端に減ったような気がします。もちろん、主義主張関係なく、ただ目的を成就させるために鞍替えするような人達は、越境者じゃない。そういう人は自省することのない背信者です。

色々思うことはありますが、1人1人の意識を変えるためには、まずは自分の場所を知り、そのボーダーを超えてみること、それをできるところからまず実践することだと思っていて。政治的にだけじゃなく。

悠長なことを言っている気がするけど、多数決のやりあいみたいになったって、しょうがないと思うんです。多数からの賛同を武器にするっていう発想は全体主義の匂いがするし、結果異端をはじくことになる。

もちろん政治的にも文化的にも、より他者への眼差しが優しいこと、まずそれを選択する人を増やすべきなんですが。これは緊急の問題ですよね。じゃないとそもそもそんな悠長なことを生む土壌さえも排除してしまうので。

勘違いしてはいけないのは、多様性を尊ぶということは、何でもやっていいよ!ってことじゃなくて、未知と既知の世界から何かを選びとり、それを信じることなんじゃないかと思います。もちろんそれは広大な世界から何かを選んだだけに過ぎないわけで。そういうことも含めて信じたいし、自分の選択に自信をもっていたい。選ばれなかったものへの敬意も忘れずに。

まずは自分自身の意識を劣化させないようにしたい。せめて、そういう人でありたいと思うことで、この流れに抗いたい。

そう感じています。



追記:自分の意識の劣化について書きましたが、久々に内田樹のブログを読んだら、人間の劣化について書いてあった…!これ、面白いので読んでほしいです。 ↓

http://blog.tatsuru.com/2012/11/19_1120.php







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