先日、まるさんが「美味しんぼ」ネタで、書き込みをしてくれて、かなりアガったんですけれども、その中で
俺も最近、音楽好きたちがクラブに来てくれるようになるにはどうしたらいいのかよく考えます
と書いてくれていました。
これ、僕もよく思うんですが、すごくシンプルな1つの答えが“パーティーの教科書”と話題の(まあ、僕だけですが…)内田樹先生の「街場の教育論」にいいことが書いてあるので引用しておきます。
ちょっと、長く引用するので、お暇な方は読んでみてください。
ある専門領域が継続的にアクティブであるためには、新しい「血」が絶えず流入することが不可欠ですが、「新しい血」というのは「なんだか知らないけれど、この領域はおもしろそうだな」と胸を期待に膨らませる若い人たちのことです。まるっきりの非専門家であるこの少年少女たちの知的欲望を喚起するというのは、専門的な学問が活動し続けるための必須の条件なのです。
若者たちの知的欲望を喚起するには、いろいろなやり方があります。面と向かって「おもしろいから、おいでよ」というのも一つのやり方ですけれども、学者はあまりそういうことはしません。ふつうは「内輪のパーティー」をしているところを「見せつける」という姑息な手段を採用します。内輪にだけしか通じない符丁で、内輪のギャグで笑っている様子を子どもたちに誇示して、「メンバー」になれば「こういうこと」をして、部外者に疎外感を味わわせることができるということを暗示します。もちろん、この手にひっかかって専門家になってしまう子どももいるのですけれど、業界が「そういう人」ばかりなると、「パーティー」がますます閉鎖的になり、「内輪の符丁」がますます暗号化してきて、ついにはそこで何をしているのだか外からわからなくなってしまう。そうなると、やっぱり誰も来なくなります。
いろいろな学問領域が不人気になりましたけれど、遠慮なく言えば、その理由の過半は「身内のパーティー」にかまけて中高生たちの欲望を喚起するという仕事を怠ったせいだと私は思います。
最初のほうを読んでみると、マジでパーティーのことが書いてあるんじゃねえか???って思っちゃいますが、だんだんと読み進めていくと、専門教育について論じていることがわかります。ただ、ある種の普遍性を備えた意見ですよね。だから、もちろん、パーティー論として見ることができる。それ以上に似ている何かを感じていますが…。
これをクラブカルチャーに置き換えた時、子ども=若い世代ともとらえられるし、子ども=クラブには行かない音楽好きたちともとらえることができます。重要なのは、ある種マイナーなこのカルチャーの中で、(クラブカルチャーを知らない)“まるっきりの非専門家である人達”を魅了してやまないほどの強度が、パーティーには必要だということです。そんな身内にしかわからないような暗号抜きで楽しめるものが!
前に内田樹のブログを取り上げたら、思いの他評判がよかったんですが、「街場の教育論」はこんな感じでパーティー論として読むことができる。そして、その指摘がけっこう核心をついていたりするんです。
クラブカルチャーを偉そうなものとして持ち上げるつもりもないし、学びの場だ!なんて気取ったことを言うつもりもありませんが、DJとフロアに居る人達の関係性と、教師と子どもとの関係性は似ている部分があると思うのです。それはする側と受ける側なんて、単純な話ではなく、お互いを補完する関係だということです。
そんなことをたま~にこのブログで「街場の教育論」をテクストにしながら「街場のパーティー論」として書いてみたいと思います。
というわけで、序章でした。
3 件のコメント:
連載、楽しみにしてる!
面白かった。続編楽しみだ。
maruoさん&治郎さん
ありがとうです!
続編、時間を見つけて書きますのでお楽しみに!
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