人間は自分のことは適切には評価できない。
でも、「私のことを適切に評価してくれる人」を探し当てることはできる。
自己評価とはその能力のことを言うのである。
引用は内田樹先生の2月3日付のブログから。
http://blog.tatsuru.com/2010/02/03_0942.php
内田樹先生のブログや著書はよく読んでいるんですが
とても考えさせられることが多いです。
今度彼の著書「街場の教育論」をテクストにしつつ
このブログで 「街場のパーティー(クラブ)論」と題して
”いいパーティーとは何か?”
考えてみたいと思っています。
話は戻りますが
このブログの話がとても素晴らしいので、かなり長いですが、引用してしまいます。
ちょっとみなさんも読んでみてください。
(合気道の)甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。
遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。
ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」
おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。
つねづね申し上げていることだが、他人を出し抜いて利己的にふるまうことで自己利益を得ている人間は、そういうことをするのは「自分だけ」で他人はできるだけ遵法的にふるまってほしいと願っている。
高速道路が渋滞しているときに路肩を走るドライバーや、みんなが一列に並んで順番を待っているときに後ろから横入りする人は「そんなことをするのが自分だけ」であるときにもっとも多くの利益を得、「みんなが自分のようにふるまう」ときにアドバンテージを失うからである。
だから、彼らは「この世に自分のような人間ができるだけいないこと」を願うようになる。
論理的には必ずそうなる。
その「呪い」はまっすぐ自分に向かう。
「私のような人間はこの世にいてはならない」という自分自身に対する呪いからはどんな人間も逃れることはできない。
そのような人は死活的に重要な場面で必ず「自滅する」方のくじを自分の意志で引いてしまうのである。
しかるに、「自分のような人間は自分だけである方が自己利益は多い」という考えを現代人の多くは採用している。
「オリジナリティ」とか「知的所有権」とか「自分探しの旅」とかいうのはそういうイデオロギーの副産物である。
けれども、「オリジナルであること」に過大な意味を賦与する人たちは、そのようにして「私のような人間はこの世にできるだけいない方がいい」という呪いを自分自身かけているのである。
「私のような人間ばかりの世界」で暮らしても「平気」であるように、できれば「そうであったらたいへん快適」であるように自己形成すること、それが「倫理」の究極的な要請だと私は思う。
「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。
深いですね…。
ここまでの話を読んで、僕は自身の登山体験を思い出しました。
なぜいきなり登山なのかと言うと
登山というのは、本当に周囲の人の善意に支えられて山に登っているというのを毎回僕は実感するんです。
このブログで言われている“自分だけ”って考え方をする人がほとんどいない。だから成立している。
つまり、危険な場所だからこそ、人の善意を頼らなければ辿り着けない所でもある。
どんな低い山でも、どんなに安全と言われようとも、人は山に登る時本能的に生命の危険っていうのを感じていると思うのです。
僕自身は北アルプスの涸沢で初めてテントで泊まった時、その時が相当な悪天候だったものですから、テントの中に居ても不安でまったく落ち着かなかった。
2,000m級でのテント泊体験自体がなかったものですから、まあ、テントの中に居る自体かなり安全ではあるものの、「このまま夜を越せるのか…」と心底怖かったんですね。
そういう危険な場所では、人間は本能的に“自滅しない”ためにも自分を律するんだと思います。その本能がこの文化を支えている。
山での犯罪があった等の話をほとんど聞かないのは、この危険な状況の中で1人でも邪なことを考えている人間がいると思っただけで、山に登れなくなるから。
“自分はここに居てもいいんだ”と思いながら、みんな登っているように思います。僕は間違いなくそうです。
話がまた脱線しますが
パーティーにもこの倫理観っていうのが、本当に重要だと僕は考えています。
“自分だけ楽しければいいじゃん”っていう感覚は、やっぱり良くない。
それは本能的な危険とはまた別の意味で危険なわけです。
逸脱した行動によって、どれだけ多くの人に迷惑がかかるかわからない危険さを孕んでいる。
そういうことを想像する能力だったりが必要だと思うんですけど、いかがでしょうか?
様々なことをシェアしながら、“自分はここに居てもいいんだ”と楽しみながらフロアに居ること。
僕が好きなパーティーはそういうパーティーです。
そして、そういう場所を作り、楽しんでいる人達を僕は人間として尊敬しています。
利己的に生きる世間的な勝ち組の人達よりも。
先日飲んだchannel03のコージローさんも僕と同じ年くらいなのに、すごく意識が高くて、本当にびっくりしました。
DJとしても、オーガナイザーとしても尊敬できる人は違うな~と思ったわけです。
とくにlabylinthについての考察は面白かった。
http://channel03.jp/blog/2008/09/labylinth-2008.html#more
http://channel03.jp/blog/2009/09/labyrinth2009.html
まさに
自治力の高いパーティーがシーンに増える様に僕らも高い意識で
パーティーを開催したいと思います。
に尽きます。
すげー脱線しました…。以下内田先生のブログの引用を続けます。
でも、これはむずかしい課題である。
ふつうの人は「世界が私のような人間ばかりだったら」気が狂ってしまう。
他者のいない世界に人間は耐えられないからである。
だから、論理的に考えれば、「私のような人間ばかりでも平気な『私のような人間』」とは「一人の人間の中に多数の他者がごちゃごちゃと混在している人間」だということになる。
一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」。
倫理的とはそういうことだと私は思う。
つねに遵法的で、つねに政治的に正しく、つねに自己を犠牲にして他人のために尽くし、つねににこやかにほほえんでいる人間たちのことを「倫理的」だと思っている人がいるが、そうではない。
だって、そんな人で世界が充満していたら私たちはたちまち気が狂ってしまうからだ(少なくとも、私は狂う)。
だから、「そんな人間」は「倫理的」ではないと私は思っている。
他人を踏みつけにして自己利益を追求するだけの人間も、自己犠牲を厭わずに正義や信念を貫く人間も、「世間がそんな人間ばかりだったら、息苦しくてやってられない」人間であるという点では選ぶところがない。
だから、甲野先生の成績を自己申告でつけるときには「えええ、どうしたらいいんだろう」と迷ってしまうというのがたぶん適切なふるまい方なのだと思う。
(中略)
自分の点数を知りたければ、あたりを見渡して、「人を見る眼」がありそうな人を探せばいい。
そして、その人に「私は何点くらいかな」と訊けばいい。
あなたに「人を見る眼」があれば、その問いにきちんと適切な解答をしてくれる人を過たず探し当てることができるはずである。
正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。
「正確な自己評価が出来ている人」が存在するように見えるのは、その人が「自分についての適切な外部評価を下してくれそうな人」を言い当てる能力を持っているからである。
(中略)
人間は自分のことは適切には評価できない。
でも、「私のことを適切に評価してくれる人」を探し当てることはできる。
自己評価とはその能力のことを言うのである。
僕はまだまだそんな“眼”もありませんし、未熟だけれど、この文章読んで感じることがたくさんありました。
内田先生のブログは示唆に富む話が多いので、他も一読しつつ、著書も読んでみることをオススメします。
例えば最近だと
卒後教育について書かれた↓とか。
http://blog.tatsuru.com/2010/01/20_1135.php
ちょっと手厳しい↓とか。
http://blog.tatsuru.com/2010/01/08_1532.php
それにしても!
論理的に考えれば、「私のような人間ばかりでも平気な『私のような人間』」とは「一人の人間の中に多数の他者がごちゃごちゃと混在している人間」だということになる。
一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」
この文はまるでパーティーのことを言っているようで素敵ですね!(これも脱線…。)
2010年2月10日水曜日
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2 件のコメント:
街場のパーティ論、だっけ、パーティの教育論だっけ、買ったよ。これから読みます!
3連チャン、お疲れ様でした!
まるおさんのパーティー・ピーポーっぷりにはだいぶヤラレています。
今週末も、来月末もよろしくです!!!
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